- 純真さの勧め。アッラーは、かれのお顔が望まれたものではない行いを、お受け入れにはならない。
- アッラーへのお近づきを求める行為は、たとえそれが正しかったとしても、単に習慣上のものとして行っただけでは褒美の対象とはならない。それには、アッラーへのお近づきを意図することが必要なのである。
- アッラーとその使徒のために移住することの徳と、それが正しい行いであること。なぜならその意図を伴っているからである。
- このハディースは、イスラームの教義の中核を成しているハディースの1つである。ある学者らは言う:イスラームの中核を成すのは、2つのハディースである。1つはこのハディース。もう1つはアーイシャが伝えるハディース「私たちの教えではないものに則って行った行為は、受け入れられない」である。このハディースは心の動きにおける基本であり、内面的行動の基準となるものである。一方アーイシャの伝える件のハディースは、身体的行為の基本となるものである。
- 崇拝行為はそれぞれ区別しなければならないし、崇拝行為と取引行為も区別しなければならない。表面的に似通った行いを区別するのは、意図のみである。
- 意図を伴わない行為は、いかなる位置づけも褒美も結果付けることのない、無意味な行いである。
- 行いを純粋なものとした者は、その行いの位置づけと褒美を獲得したことになり、その行いは正しいものとなる。行いの条件を満たせば、褒美が得られることになる。
- アッラーに純真に向けられていない行いは、無効になる。
- 現世とその欲望の卑下。現世のためにヒジュラした者が得るものは「・・・それゆえにヒジュラしたことになるのだ」と漠然とした形で描写されている一方、アッラーとその使徒のためにヒジュラした者については、得られるものが明確に描写されている。これは秀逸な表現であり、修辞法に富んだ言葉である。